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日本性愛史・弥生時代

category - 性愛史
2019/ 03/ 06
                 
日本性愛史・弥生時代
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日本性愛史
弥生時代(紀元前3世紀~後2世紀後半)
吉野ケ里遺跡復元模型C

○いっそうよくわからない

 この時代の性事情について、「平時は慎み、神前での祭でのみ行っていた」だの、「近親交配を避けるため、村境に行って他村の者と乱交していた」だのともっともらしく言っているものも見受けられるが、それらの説にはなんら根拠も証拠もなく、現状ではただの想像に過ぎない。

 この時代は縄文時代に比べ、性的な表現を伴う遺物がほとんど出土していないため、むしろその実情は縄文以上にわからなくなってしまっているといっていい。

縄文土器・弥生土器
 右:縄文土器(東京都あきる野市草花出土) 左:弥生土器(東京都大田区久ヶ原出土)

 弥生土器を見てもわかる通り、デコラティブなものを好んだ縄文時代と比べ、弥生時代にはシンプル・イズ・ベストとでもいうべき、淡白な装飾を良しとするものへと美的感覚が劇的に変化した。

 おそらくではあるが、そうした派手な装飾を避ける造形美が、遺物から性的表現のなくなる一因となっているのかもしれない。

 装飾は淡白になっても、労働力確保や生存率の低さなどから考えれば、性に対して淡白になったとはとても考えられないのだ。

○弥生の土偶と石棒

 縄文のイメージが強くてあまり知られていないが、それでもじつは弥生時代前期~中期初頭(紀元前3世紀~紀元前1世紀)くらいまで石棒や土偶は存在していた。

容器形土偶(山梨県笛吹市丘遺跡)
 容器形土偶(山梨県笛吹市丘遺跡出土)

 土偶は土偶形容器(中に乳幼児の歯や骨を入れて埋葬した)というものへ変化してゆくが、縄文の土偶が女性形(時に男性的なものも)一体だけだったのに対し、男女一対というものも存在しているのが特徴である。

 そこには、狩猟・採集から農耕へと主となる労働が変わったことにより、男女の社会的役割・地位における何らかの変化が起きたものと考えられる。

弥生時代の石棒(神戸市大間遺跡)
 弥生時代の石棒(神戸市大間遺跡出土)

 石棒の方は近畿一円(河内湖南岸域の諸遺跡など)から出土している石棒類のように、弥生中期初頭くらいまで用いられていたようである。

○陽物形木製品

陽物型木製品(奈良県田原本町唐古・鍵遺跡)
 陽物型木製品(奈良県田原本町唐古・鍵遺跡出土)

 中期以降になると石棒は見られなくなるが、そこで注目されるのが石ではなく木で男根を象った〝陽物形木製品〟である。

 同様の者が奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡など、水田を伴う集落の遺跡から出土している。

 もしかすると、石棒の担っていた役割は、この木製の陽物に受け継がれたのかもしれない。

 ただし、現在の道祖神(塞の神)のように、道や集落の境界において魔除けとしたという説もあり(※後の時代にはそれらしき出土例もある)、その可能性も充分考えられる。

○農耕の影響

 本格的な農耕(稲作)が大陸から伝わり、驚異的なスピードで列島の広範囲に広まったこの時代、それとともに農耕社会的な性に対する観念も伝わっていったものと思われる。

 世界的に見ても、作物を生み出す大地の神を女神(大地母神)とみなし、豊作=即ち、女神が多産であることを願う祈りは、自然と性行為に結びつけられた。

 それは俗語に精子を〝種〟と呼び、膣(子宮)を〝畑〟と呼ぶことにも表れていよう。

 例えば、メソポタミアのイシュタル女神などオリエントの大地母神もそうであるし(※世界性愛史ならびに性愛の神参照 現在準備中)、後述する日本の記紀神話でも(※日本性愛史・古墳時代参照)、そうした豊作に性行為による生殖を連想する傾向は見てとることができる。

 そこから、類感呪術(※「外見や性質が似ているものはお互いに影響し合う」という、スコットランドの社会人類学者J.G.フレイザーが提唱した原初的な呪術の原理)的に、儀式的な意味を持つ性行為によって豊作を祈る祭が行われていたことは充分に考えられるだろう。

○貞操観が生まれた?

 エストニア・タルトゥ大学によるDNA研究によると、この新石器時代に入って農耕が始まる時期に、世界的に男性遺伝子のボトルネック現象(※ビール瓶の首のように遺伝子の多様性が極端になくなり、偏りを見せる現象)が起きているという……。

 つまり、そのコミュニティにいる男性全体の内で、性行為を行って自身の遺伝子(子孫)を残せたものはごくわずかだったということだ。

 この原因に関し、研究者は「農耕により富の貯えが可能となり、貧富の差や身分階級が生まれ、社会的に力のある者だけが子孫を残せるようになったため」と仮説を立てている。

 いわゆる王や貴族とされる階級が生まれてくるのもこの頃だ。

 また、富が生まれれば、その富を自分の子供に継がせたいという思いが生まれ、「血統を明確にするために、特定のパートナーとしか交わらない」という貞操観念が生まれてくることは確かに考えられるだろう。

 だが、反面、農耕はそれまでの狩猟・採集社会以上に労働力を必要とする。

 時代はぐっと下るが、近代も初めの頃くらいまでの農村では〝夜這い〟や〝乱交〟の文化があり、誰の子供であるかわからなくても、大切な労働力として村全体で育てたという。

 その例からしても、いまだ平均寿命や乳幼児の生存率が極めて低い中、そのような貞操観念が支持されるのは難しいと思うのだが、如何なものであろうか?

 貞操観念というより、牝は本能として「より生存率の高い遺伝子を求める」ものであるが、農耕による社会の変化によって、生存率の髙い遺伝子=「富や社会的地位を持つ」者との子作りを女性が求めるようになったというのが、このボトルネック現象の原因なのかもしれない。

○ヌードはむしろ現代的?

魏志倭人伝
 魏志倭人伝(鯨面文身の記述が見える)

 歴史の授業でご存知の通り、この時代の倭人(※当時、日本列島に住んでいた人々)についての記述が中国の歴史書に残されている。

 そこで注目されるのが「鯨面文身(※鯨面が顔、文身が身体への入れ墨)の記述だ。

 ・『三国志魏書魏書第三十巻烏丸鮮卑東夷伝倭人之条(魏志倭人伝)』 
 西晋 陳寿著 280~297年成立 

 「男子皆黥面文身以其文左右大小別尊之差」 
 訳:男は皆、身分を問わず全身に入れ墨をしていた。

・『後漢書東夷伝』
 南北朝・宋 范曄(はんよう)著 432~445年成立

 「諸国文身各異或左或右或大或小尊卑有差」 
 訳:(倭人は)各国々でそれぞれに異なる入れ墨を身体にしていた。

 縄文時代の土偶にも入れ墨と思しき装飾があるので、この習俗は縄文にまで遡るものと思われる。

 『魏志倭人伝』では男子のことしか言っていないので女性がどうであったかまでは定かでないが、少なくとも今風に言うと、タトゥーが非常に日常的に行われていたことは確かである。

 反社会的なイメージからタトゥーが倦厭されている現代日本に比べ、ファッションの一つとしての文化が定着している海外(※韓国・中国では日本同様、嫌われる傾向にある)では、女性モデルも普通にタトゥーを施した裸体を露出したり、さらに能動的に男性を興奮させるための〝性的装飾〟として施している者もいる。

 タトゥーに慣れ親しんでいた弥生人の裸体に対する美的感覚は、現代の日本人よりもむしろこうした海外の者に近かったのかもしれない。

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