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日本性愛史・平安時代・平安朝ボーイズラブ
category - 性愛史
2019/
04/
27日本性愛史・平安時代・平安朝ボーイズラブ
→展示室案内(INDEX)
日本性愛史
平安時代(794年~1185年)
平安朝ボーイズラブ
〇男好き♡悪左府頼長
奈良時代以降、僧侶の間で公然と行われていた男色――BL(ボーイズラブ)であるが、平安末期には公家の間にも広まっていたようである。
中でも有名なのが平安末期に左大臣を務めた藤原頼長(1120年~1156年)である。
藤原頼長像(公家列影図)
「日本一の大学生」と称されるほど学識高く、頭脳明晰(ただし和歌と漢詩は苦手…)で、律令や儒教に即して綱紀粛正や学術復興の政策を行ったが、鳥羽法皇の寵臣・藤原家成の邸宅を破壊したり、仁和寺境内に検非違使(※警察のようなもの)を送り込み僧侶と騒動を起こしたり、石清水八幡宮に逃げ込んだ罪人を捕まえようとしての流血事件となったり、上賀茂神社境内で興福寺の僧を捕縛したり……とそのあまりの過激さから〝悪左府(※型破りな左大臣の意)〟の異名で呼ばれた。
そんな苛烈な性格が災いしてか、院(※上皇・法皇)の近親である中・小貴族の反発を招き、関白である兄の忠通や近衛天皇、後白河天皇の養育係・信西とも対立して孤立。最後は父の忠実とともに保元の乱(1156年)で敗れ、没した。
そんな、なんともキャラの立った人物、悪左府頼長であるが、その日記『台記』には彼が男色を好んでいたことが詳しく書かれている。
しかも、その恋の成り行きや性生活を事細かに。
それも、当時の〝日記〟が今日の私的なそれとは大きく異なり、儀式の式次第や慣例などを記し、貴族社会で生きていくためのノウハウを子孫に伝えるための公的な参考書だったにも関わらずである。
例えば、その部分を抜粋してみるとこんな感じだ。
・康治元年七月五日
(原文)
今夜於内辺会交或三品(件三品兼衛府)、年来本意遂了。
(現代訳)
今夜、衛府三位と会って交わる。数年来の念願を遂げる。
・康治元年十一月二十三日
(原文)
謁或人(彼三位衛府)、遂本意、可喜ヽヽ。不知所為。更闌帰宅、与或四品羽林会交。
(現代訳)
衛府三位と思いを遂げる。とても嬉しい。深夜に帰宅してから近衛四位とも交わった。
・天養元年十一月二十三日
(原文)
深更向或所、彼人始犯余、不敵々々。
(現代訳)
深夜、彼が初めて私の上になる(彼は初めて私を犯した)。なんと不敵なことよ
・久安三年一月十六日
(原文)
彼朝臣漏精、足動感情、先々、常有如此之事、於此道、不恥于往古之人也。
(現代訳)
彼が精を漏らす(射精する)さまに感動する。いつも彼はすばらしく、先人と比較しても全く恥じるものがない。
・久安四年一月五日
(原文)
今夜入義賢於臥内、及無礼、有景味(不快後、初有此事)
(現代訳)
今夜、義賢と床に入る。彼は私に無礼をしたが中々良かった(初めは不愉快に思ったが、初めての事で意外と気に入った)。
・仁平二年八月二十四日
(原文)
亥刻許讃丸来、気味甚切、遂俱漏精、希有事也、此人恒常有比事、感嘆尤深。
(現代訳)
亥の刻(午後10~午前0時)に讃丸(隆季or成親?)が来た。とても心地よく、ついに一緒に精を漏らした(射精した)。とても稀なことだ。この人は常にこうであり、深く感動している。
……と、子孫に見られることをすっかり忘れていたのか、なんとも赤裸々な表現である。
相手も多人数に及び、随身(※護衛官)の秦公春・秦兼任、公家では藤原忠雅・藤原為通・藤原公能(正妻・幸子の実弟)・藤原隆季・藤原家明・藤原成親・源成雅(父・忠実の寵臣)、武士では源義賢(※源義朝の異母弟、木曽義仲の父)と身分も様々で、さらに稚児や舞人などにも手を出していたようである。
いや、身分だけでなく間柄も、家来だったり、妻の弟だったり、父親の寵臣(※肉体関係があり、気に入られている家臣)だったり……もう昼ドラも真っ青なドロドロの関係っぷりだ。
しかし、反面、その口説き方はいたってノーマルであり、女性に対してのそれ同様、「歌を送る」という手法をとっていたらしいのだが、如何せん頼長は歌が不得意であったためか、口説くのもあまり上手いとはいえなかったようだ。
例えば、美貌で知られた藤原隆季(たかすえ)などは年毎に何通もの手紙を送るもまるで返事をもらえず、最後は陰陽師・安倍泰親(晴明の五代目子孫)に祈祷符をもらうというマジカルな手を打った上に、すでに性的関係を持っていた隆季の従兄弟の藤原忠雅と三人で会う約束をし、途中、忠雅に席を外してもらうと半ば強引に隆季と〝本意遂了〟ている。
〇『台記』に見る当時のBL事情
また、当時のBLルールでは、暗黙の了解として〝セメ〟か〝ウケ〟かはその位の高さによって決まっていたのであるが、上記の源義賢との一戦のように逆転する場合も稀にあったようだ(しかも、Mの気も多少あったのか、頼長はけっこう喜んでいる)。
もう一つ注目すべきは「彼朝臣漏精、足動感情」、「遂俱漏精、希有事也(中略)感嘆尤深」と、行為中、〝精を漏らす=射精をする〟ことにとても喜びを得ていることだ。
性行為で男側が射精するのはごくありふれたことなので、これはおそらく肛門へ挿入する〝セメ〟側ではなく、犯される〝ウケ〟側の射精のことを言っているのだろう。
いわゆる俗に〝トコロテン〟と呼ばれるものであり、通常の射精と違い、前立腺の奥の精嚢を刺激することで、まさに〝ところてん〟の如く精液を押し出されて射精する生理現象である。
メカニズムはまったく異なるが、外見的には相手が女性であった場合の膣穴を突かれてオーガズムに達する=即ち〝イク〟のに相当して映るため、〝セメ〟側の男としては自分のテクニックで〝ウケ〟手が達する様がうれしく思えたのかもしれない。
〇BLも政略の道具
こうして見ると、なんとも〝男好き〟に見える頼長であるが、彼の男色は純粋な恋愛というより政略的な意味合いの強いものであったようだ。
それは、『台記』の記述から特定されている相手の四人までが院(※上皇・法皇)の近臣・藤原家成の親族であったことからも窺える。
源氏の棟梁である源為義の次男・義賢と通じたのも、源氏の武力を自分の側に取り込みたいという思惑が少なからずあってのことだったのかもしれない。
頼長ばかりでなく、平安末期の公家社会では男色が流行していたようであるが、それは院政(※上皇・法皇による政治)が行われ、上皇派、天皇派、さらに摂関家や平氏・源氏のような武家と、政治権力が複雑に絡み合う時代であったことと考え合わせるとなかなかに興味深い。
よく「当時、女性との結婚は政略結婚であったため、自由な恋愛を男色に求めた」的なことが言われていたりするが、この頼長の例を見る限りそうとも言い難いように思われる。
そもそも当時の結婚制度自体、後の時代のような堅苦しいものではなく、ほぼ〝フリーセックス〟状態であったため、政略的に結婚したとしても自由奔放に恋愛ができ、それが許されていたのだ。
他方、頼長は身分が低い随身の秦公春を非常に愛し、彼が病死した際には一月も家に引き籠り、公春を救わなかった神仏に対する愚痴を『台記』へ数十頁にわたり書き記している。
確かに別項(※平安時代TOPページ →)でも触れているとおり、貴族における恋愛は相手の女性の家が持つ地位や経済力を獲得するための手段でもあったが、同様に男色にもそうした目的が少なからずあったのであろう。
しかし、ただ単に政略的なものだったわけではなく、そこには純粋な恋愛感情によるものも当然あり、相手が男であれ女であれ、いわば現代における〝婚活女子〟と同じように、政略的でありつつ、かつ恋愛を楽しんでいたというのが実際の所だったのではないだろうか。
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平安時代(794年~1185年)
平安朝ボーイズラブ
〇男好き♡悪左府頼長
奈良時代以降、僧侶の間で公然と行われていた男色――BL(ボーイズラブ)であるが、平安末期には公家の間にも広まっていたようである。
中でも有名なのが平安末期に左大臣を務めた藤原頼長(1120年~1156年)である。
藤原頼長像(公家列影図)
「日本一の大学生」と称されるほど学識高く、頭脳明晰(ただし和歌と漢詩は苦手…)で、律令や儒教に即して綱紀粛正や学術復興の政策を行ったが、鳥羽法皇の寵臣・藤原家成の邸宅を破壊したり、仁和寺境内に検非違使(※警察のようなもの)を送り込み僧侶と騒動を起こしたり、石清水八幡宮に逃げ込んだ罪人を捕まえようとしての流血事件となったり、上賀茂神社境内で興福寺の僧を捕縛したり……とそのあまりの過激さから〝悪左府(※型破りな左大臣の意)〟の異名で呼ばれた。
そんな苛烈な性格が災いしてか、院(※上皇・法皇)の近親である中・小貴族の反発を招き、関白である兄の忠通や近衛天皇、後白河天皇の養育係・信西とも対立して孤立。最後は父の忠実とともに保元の乱(1156年)で敗れ、没した。
そんな、なんともキャラの立った人物、悪左府頼長であるが、その日記『台記』には彼が男色を好んでいたことが詳しく書かれている。
しかも、その恋の成り行きや性生活を事細かに。
それも、当時の〝日記〟が今日の私的なそれとは大きく異なり、儀式の式次第や慣例などを記し、貴族社会で生きていくためのノウハウを子孫に伝えるための公的な参考書だったにも関わらずである。
例えば、その部分を抜粋してみるとこんな感じだ。
・康治元年七月五日
(原文)
今夜於内辺会交或三品(件三品兼衛府)、年来本意遂了。
(現代訳)
今夜、衛府三位と会って交わる。数年来の念願を遂げる。
・康治元年十一月二十三日
(原文)
謁或人(彼三位衛府)、遂本意、可喜ヽヽ。不知所為。更闌帰宅、与或四品羽林会交。
(現代訳)
衛府三位と思いを遂げる。とても嬉しい。深夜に帰宅してから近衛四位とも交わった。
・天養元年十一月二十三日
(原文)
深更向或所、彼人始犯余、不敵々々。
(現代訳)
深夜、彼が初めて私の上になる(彼は初めて私を犯した)。なんと不敵なことよ
・久安三年一月十六日
(原文)
彼朝臣漏精、足動感情、先々、常有如此之事、於此道、不恥于往古之人也。
(現代訳)
彼が精を漏らす(射精する)さまに感動する。いつも彼はすばらしく、先人と比較しても全く恥じるものがない。
・久安四年一月五日
(原文)
今夜入義賢於臥内、及無礼、有景味(不快後、初有此事)
(現代訳)
今夜、義賢と床に入る。彼は私に無礼をしたが中々良かった(初めは不愉快に思ったが、初めての事で意外と気に入った)。
・仁平二年八月二十四日
(原文)
亥刻許讃丸来、気味甚切、遂俱漏精、希有事也、此人恒常有比事、感嘆尤深。
(現代訳)
亥の刻(午後10~午前0時)に讃丸(隆季or成親?)が来た。とても心地よく、ついに一緒に精を漏らした(射精した)。とても稀なことだ。この人は常にこうであり、深く感動している。
……と、子孫に見られることをすっかり忘れていたのか、なんとも赤裸々な表現である。
相手も多人数に及び、随身(※護衛官)の秦公春・秦兼任、公家では藤原忠雅・藤原為通・藤原公能(正妻・幸子の実弟)・藤原隆季・藤原家明・藤原成親・源成雅(父・忠実の寵臣)、武士では源義賢(※源義朝の異母弟、木曽義仲の父)と身分も様々で、さらに稚児や舞人などにも手を出していたようである。
いや、身分だけでなく間柄も、家来だったり、妻の弟だったり、父親の寵臣(※肉体関係があり、気に入られている家臣)だったり……もう昼ドラも真っ青なドロドロの関係っぷりだ。
しかし、反面、その口説き方はいたってノーマルであり、女性に対してのそれ同様、「歌を送る」という手法をとっていたらしいのだが、如何せん頼長は歌が不得意であったためか、口説くのもあまり上手いとはいえなかったようだ。
例えば、美貌で知られた藤原隆季(たかすえ)などは年毎に何通もの手紙を送るもまるで返事をもらえず、最後は陰陽師・安倍泰親(晴明の五代目子孫)に祈祷符をもらうというマジカルな手を打った上に、すでに性的関係を持っていた隆季の従兄弟の藤原忠雅と三人で会う約束をし、途中、忠雅に席を外してもらうと半ば強引に隆季と〝本意遂了〟ている。
〇『台記』に見る当時のBL事情
また、当時のBLルールでは、暗黙の了解として〝セメ〟か〝ウケ〟かはその位の高さによって決まっていたのであるが、上記の源義賢との一戦のように逆転する場合も稀にあったようだ(しかも、Mの気も多少あったのか、頼長はけっこう喜んでいる)。
もう一つ注目すべきは「彼朝臣漏精、足動感情」、「遂俱漏精、希有事也(中略)感嘆尤深」と、行為中、〝精を漏らす=射精をする〟ことにとても喜びを得ていることだ。
性行為で男側が射精するのはごくありふれたことなので、これはおそらく肛門へ挿入する〝セメ〟側ではなく、犯される〝ウケ〟側の射精のことを言っているのだろう。
いわゆる俗に〝トコロテン〟と呼ばれるものであり、通常の射精と違い、前立腺の奥の精嚢を刺激することで、まさに〝ところてん〟の如く精液を押し出されて射精する生理現象である。
メカニズムはまったく異なるが、外見的には相手が女性であった場合の膣穴を突かれてオーガズムに達する=即ち〝イク〟のに相当して映るため、〝セメ〟側の男としては自分のテクニックで〝ウケ〟手が達する様がうれしく思えたのかもしれない。
〇BLも政略の道具
こうして見ると、なんとも〝男好き〟に見える頼長であるが、彼の男色は純粋な恋愛というより政略的な意味合いの強いものであったようだ。
それは、『台記』の記述から特定されている相手の四人までが院(※上皇・法皇)の近臣・藤原家成の親族であったことからも窺える。
源氏の棟梁である源為義の次男・義賢と通じたのも、源氏の武力を自分の側に取り込みたいという思惑が少なからずあってのことだったのかもしれない。
頼長ばかりでなく、平安末期の公家社会では男色が流行していたようであるが、それは院政(※上皇・法皇による政治)が行われ、上皇派、天皇派、さらに摂関家や平氏・源氏のような武家と、政治権力が複雑に絡み合う時代であったことと考え合わせるとなかなかに興味深い。
よく「当時、女性との結婚は政略結婚であったため、自由な恋愛を男色に求めた」的なことが言われていたりするが、この頼長の例を見る限りそうとも言い難いように思われる。
そもそも当時の結婚制度自体、後の時代のような堅苦しいものではなく、ほぼ〝フリーセックス〟状態であったため、政略的に結婚したとしても自由奔放に恋愛ができ、それが許されていたのだ。
他方、頼長は身分が低い随身の秦公春を非常に愛し、彼が病死した際には一月も家に引き籠り、公春を救わなかった神仏に対する愚痴を『台記』へ数十頁にわたり書き記している。
確かに別項(※平安時代TOPページ →)でも触れているとおり、貴族における恋愛は相手の女性の家が持つ地位や経済力を獲得するための手段でもあったが、同様に男色にもそうした目的が少なからずあったのであろう。
しかし、ただ単に政略的なものだったわけではなく、そこには純粋な恋愛感情によるものも当然あり、相手が男であれ女であれ、いわば現代における〝婚活女子〟と同じように、政略的でありつつ、かつ恋愛を楽しんでいたというのが実際の所だったのではないだろうか。
〇夜這いの作法 →
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