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日本性愛史・平安時代・平安女子の自由恋愛

category - 性愛史
2019/ 04/ 14
                 
日本性愛史・平安時代・平安女子の自由恋愛
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日本性愛史
平安時代(794年~1185年)
平安女子の自由恋愛

源氏物語C

〇清少納言は経験豊富?

清少納言
 清少納言

 『源氏物語』の姫君達を見ていると、当時の女性は「ただ男の来訪を待つだけ」、「男に忘れられても、ただ淋しさに堪えて待つしかない」というようなイメージを抱きがちであるが、女房(※天皇の妻などの貴人に仕える女官)の日記を読むと、それとは大きく異なる活発的に恋を楽し女性像が現れてくる。

 例えば、よく紫式部のライバルと称される『枕草子』の著者・清少納言(966年頃~1025年頃)は、最初、陸奥守(※現東北地方の行政官長)である橘則光と結婚し、一子則長をもうけるが武骨な夫と反りが合わず離婚。

 だが、それで則光と絶交するわけでもなく、宮中公認の仲(恋人あるいはセフレ?)であり続けながら、他方、摂津守(※現大阪府の行政官長)・藤原棟世と再婚して娘・小馬命婦を生んでいる。

 正暦4年(993年)の冬頃からは一条天皇の中宮(※正妻)定子に女房として仕えるが、その宮中生活の中でも藤原実方、藤原斉信、藤原行成、源宣方、源経房といった公卿、公達との親交を持ち、特に藤原実方とは恋愛関係にあったことが推察されている……

 というように、「一人の男をずっと愛し続ける一途な女」というのではなく、貴公子達同様、多くの男性と関係を持っているのである。

また、『枕草子』の第六十段「暁に帰らむ人は」には、〝ダメな男〟について書かれれているのであるが、


(原文)

「あかつきに帰らむ人は、装束などいみじううるはしう、烏帽子の緒、元結、かためずともありなむとこそ覚ゆれ。いみじくしどけなく、かたくなしく、直衣、狩衣などゆがめたりとも、誰か見知りて笑ひそしりもせむ。

人はなほあかつきのありさまこそ、をかしうもあるべけれ。わりなくしぶしぶに起きがたげなるを、しひてそそのかし、明けすぎぬ。あな、見ぐるしなど言はれて、うちなげくけしきも、げにあかず物憂くもあらむかしと見ゆ。指貫なども、ゐながら着もやらず、まづさしよりて、夜言ひつることの名残、女の耳に言ひ入れて、何わざすともなきやうなれど、帯など結ふやうなり。格子おし上げ、妻戸ある所は、やがてもろともに率(ゐ)ていきて、昼のほどのおぼつかならむことなども、言ひいでにすべりいでなむは、見おくられて名残もをかしかりなむ。

思ひ出所ありて、いときはやかに起きて、ひろめきたちて、指貫の腰ごそごそとかはは結ひなほし、上のきぬも、狩衣、袖かいまくりて、よろとさし入れ、帯いとしたたかに結ひはてて、ついゐて、烏帽子の緒きとつよげに結ひ入れて、かいすうる音して、扇・畳紙など、よべ枕上におきしかど、おのづから引かれ散りにけるをもとむるに、くらければ、いかでかは見えむ。いづらいづらとたたきわたし、見出でて、扇ふたふたとつかひ、懐紙さし入れて、まかりなむとばかり言ふらめ」


(口語訳)

「明け方、女の所から帰ろうとする男は服装などきちんとし、烏帽子の緒や髪の元結を固く結ばなくてもよさそうに思える。だらしなく、ぶざまに直衣や狩衣などが歪んでいても、誰が目撃して笑ったり悪口を言ったりするだろうか?

男はやはり明け方の別れ際こそ風流であるべきだ。しぶって起きないでいるのを女が無理に急かし、〝すっかり明るくなりましたよ。まあ、みっともない〟などと言われ、溜息を吐く様子もほんとに名残惜しく、別れが辛いのだろうと見える。指貫なども座ったまま着ようとせず、まずは女に近寄って夜の話の続きを耳元で囁き、特に何をするでもなく帯などを結んでいる。格子を上げたり、妻戸の所へ女も一緒に連れて行き、昼間は(夜に会うまでが)待ち遠しいなどと言いながら、そっと出て行くのは女も自然に見送ることになって、名残も趣きがあるものだ。

かたや何か思い出したのか、いやにさっぱりと起き出し、ばたばたと動き回り、指貫の腰紐をがさがさと結び直し、袍や狩衣も袖をまくり上げ、さっさと腕を通し、帯を強く結び、ひざまずいて烏帽子の緒をきゅっと強めに結んで、かき寄せる音がして扇・畳紙など昨夜枕元に置いて散らかったものを探すのだが、暗いので見えはしない。どこだどこだと探し回ってやっと見つけ、扇をぱたぱたと使い、懐紙を懐中に入れながら〝帰るよ〟とだけ言うような男もいる。


 と、愛し合った日の翌朝、さっさと身形を整えて帰る男は味気なく、別れるのが辛そうにグズグズしてる男が良いと主張している。

 もっとも、批評家の清少納言のことなので(勝手なイメージですが…)、経験豊富な色恋のベテラン女子ぶって言ってるだけということも考えられるが、この妙にリアルな描写からは彼女が実際に男と遊び慣れしている様子が窺える。


〇恋多き女性、和泉式部

和泉式部002
 和泉式部

 もう一人、自由恋愛を謳歌した女性を例に挙げるとするならば、やはりこの人、紫式部と同じ中宮・彰子の女房で〝恋多き女性〟として有名な和泉式部(978年~没年不詳)であろう。

 その激しい恋愛遍歴から藤原道長に〝浮かれ女〟と評され、同僚の紫式部は「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」(『紫式部日記』)と批判されているほどだ。

 最初は和泉守(※現大阪府南西部の行政官長)・橘道貞の妻となり、娘・小式部内侍をもうけるが、道貞と別居状態になると、冷泉天皇の第三皇子・為尊親王との熱愛が世に喧伝され、「身分違いの恋である」として親から勘当を受けている。

 為尊親王の死後、今度はその同母弟・敦道親王の求愛を受け、召人(※愛人としての女房=女官)として一子・永覚を生むが、親王が彼女を屋敷に迎えるにあたり、正妃(藤原済時の娘)が家出する原因を作っている。

 そんな敦道親王も早世してしまうと、一条天皇の中宮・藤原彰子に女房として出仕、彰子の父である藤原道長の家司(※執事のようなもの)・藤原保昌と再婚する。

 これだけでは〝浮かれ女〟と言われるほどではないように思われるが、それは彼女の恋のスキャンダル性のためだったのか、それともこれ以外にもまだまだいろいろあったのだろうか……。

 ともかくも、この代表的な二人の女房(女官)の豊富な恋愛経験を見れば、当時の女性が「ただ男を待つだけ」の存在でなかったことはおわかりだろう。

 もちろん中には、例えばやはり中宮・彰子の女房の一人である赤染衛門(956年頃~1041年以後)のように、一人の夫一筋の一途な女性や、『蜻蛉日記』の作者である藤原道綱の母(936年?~995年)のように、男に忘れられ、再びの来訪をただじっと待つ淋しい身の上の者ももちろんいたであろうが、複数の姫君と関係を持つ貴公子同様、女達も幾多と男性と浮名を流していたのである。


〇離婚の権利は男女平等

寝屋
 寝所

 また〝離婚〟に関しても「男からの一方的なもので、女性はそれに従うしかない」というイメージを抱きがちかもしれないが、意外や実際には男女ともにその権利を行使できた。

〝床去り〟・〝夜離れ〟と呼ばれる「夫が妻のもとに通わなくなる」状態になれば、それは〝離婚〟と考えられたが、逆に「通ってきた夫を妻が返してしまう」という状態でも、やはり〝離婚〟は成立したのである。

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