性愛史
日本性愛史・平安時代・お寺はBLパラダイス
category - 性愛史
2019/
05/
16日本性愛史・平安時代・お寺はBLパラダイス
→展示室案内(INDEX)
日本性愛史
平安時代(794年~1185年)
お寺はBLパラダイス
○稚児で肉欲を解消!
稚児と師僧
男女の色恋の道が隆盛を極めたこの時代、男色=男同士の同性愛――即ちBL(ボーイズラブ)も盛んに行われた。
特に盛んであったのが、寺院の中におけるそれである。
寺院での男色は奈良時代から行われていたようであるが、同性愛を禁じるキリスト教と違い、日本の仏教界においては伝統的に男色が肯定的に考えられていた。
仏教には〝女犯(にょぼん)〟と言って、女性と交わることを罪とする戒律(ルール)があるのだが、「じゃあ、男同士なら問題ないね」というなんとも短絡的な解釈で性欲の問題を解決したところがスゴイ。
もっとも、この女犯は「性欲に惑わされない」ための戒律であり、それではまったくもって仏教本来の教えに反しているのであるが……
(いや、そんな性交相手に関して男女の区別に〝こだわらない〟ところは、むしろ〝執着しない〟という御仏の教えに即しているのか……?)。
また、〝女人禁制〟の仏教寺院というまったく女性のいない環境(※尼寺は真逆だが)であったことも、異性との恋愛の代替方法として同性愛に走りやすい下地を作ったものと推測される。
ともかくも、そうしてBL上等であった寺院なのだが、それは「僧と僧」によるものよりも、「僧と稚児」によるものが主流であった。
〝稚児〟というのは13~18歳くらいの少年であり、髪は剃らず、色鮮やかな水干(※子供用の着物)
を着用し、顔には化粧を施して見目美しくした美少年達である。
つまり、同性愛であるとともに、小年愛の意味合いもあったのだ。
大人になるにつれ、どうしても体格や容貌が男性らしくなってしまうため、その稚児としての寿命は短く、19歳くらいになると静かに引退するのが常であったらしい(そのまま寺を去る者もあれば、僧になる者もいたようだ)。
そうした花のように儚い寿命も、なおいっそう僧達の恋情に火をつけたのであろう。
ちなみに一言に〝稚児〟といっても、それは上・中・下に分けられ、皇族や上流貴族の子弟が行儀見習いのために預けられた上稚児、才能を見込まれ、僧侶の世話係となった中稚児、雇われたり、売られて僧のものとなった下稚児がおり、この内、中・下の稚児が男色の対象となった。
無論、皇族や上流貴族出身者の上稚児は対象外である(中には例外もあったかもしれないが…)。
しかし、一般的に〝稚児〟と言った場合、それはほぼ〝僧侶の恋人役〟としての囲い者、〝恋童〟だった。
そもそも、僧の身の回りの世話などは小坊主がすればよいのであり、出家もしていない俗人である稚児は寺院での修行生活において必要とされないはずなのである。
○別格!叡山ブランド
稚児と契りを交わす僧
そんな寺院(※主に台密――天台密教の寺院)内における稚児文化の中でも、他とは一線を画していたのが比叡山延暦寺のそれだった。
他の寺院や貴族(※平安末期には貴族にも浸透)の間では稚児の眉目形(容姿)が重要視されたのに対し、比叡山の稚児は心遣いや学問などの内面が最重要とされていたところも大きく異なる。
そのため、師である僧に囲われた稚児はたいへんな手間と金をかけて育てられたが、読み書きはもちろん、
和歌の道、内外の経典に通じることが求められ、襖の開け閉め~歩き方までその立ち居振る舞いも美しくなければならず、私語・噂話・他人の批判・高笑いは禁止、勝負事・賭け事・喧嘩も禁止、見苦しいもの、品のないものを目にすることも憚られ、武者絵すらも相応しくないと遠ざけられた。
また、そうは言ってもやはり見た目も大切であり、朝は早くに起きると楊枝(※今の歯ブラシみたいなもの)で歯を磨き、世話係によって髪を結い上げ、化粧を施された。
さらにザクロの化粧水で顔や手足を洗ってきめ細かな肌を目指し、鼻の低い者は毎晩寝る際に板で鼻を挟んでいたそうである。
こうして、『マイフェアレディ』の如く完璧な存在として仕上げられる稚児であるが、〝永年〟という法要や季節の祭事の後に行われる宴会において、美しく着飾った稚児が必ず舞を踊ったことから、この宴は〝稚児さだめ〟とも呼ばれていた。
しかし、彼ら稚児は単なる性愛の対象ではない。
稚児は観音菩薩(如意輪観音)の化現として崇拝され、稚児と性行為で結ばれることは悟りへの近道であると考えられていたのである。
『弘児聖教秘伝』(※後述)という台密の秘伝書には、
「稚児を持つ者は早く仏果菩提を証す。善く稚児を持つは斯くの如く、悪く稚児を持つは魔道の種因なるべし。稚児は聖の為なり。稚児なくんば聖あるべからず、聖なうして稚児あるべからず」
とも述べられている。
そのため、稚児を聖なる観音菩薩の化身へと変える〝稚児灌頂〟という儀式を行うまでは、その稚児と交わることは禁じられていたようだ。
天台宗の大僧正で直木賞作家でもある今東光(1898~1977年 「昭和の怪人」と称される)は、その修業時代、比叡山麓の戒蔵院で前述の『児聖教秘伝(別名:児(ちご)灌頂)』なる奇書を発見し、それを題材に『稚児』(鳳書房 1947年)を執筆したが、この書は恵心僧都作と云われるもので、そこにはまさにこの〝稚児灌頂〟式次第が書かれたものであった。
それによると、〝稚児灌頂〟は通常の灌頂儀式(※密教の入門や免許皆伝に行う、頭に水を注ぐ儀式)とほぼ同様の内容のものであるが、如意輪観音の種字(※その仏尊を表わす梵字)を本尊として行われ、特殊なのは灌頂を受けた稚児に化粧道具、宝冠、稚児装束が与えられ、その後、師の席へ移動して観音菩薩として師から礼拝される形となることである。
そして、灌頂により稚児が観音菩薩へと化したら、いよいよ初めての〝床入り〟――情交となるのだが、師のナニを受け入れる稚児の菊座(肛門)は仏の座す八葉蓮華に喩えられ〝法性花〟と呼ばれており、師によって「開かれる」まで……つまり、開通式が行われるまで、この仏を表わす清浄無垢な法相花はまだ仏性を開顕してはおらず、蕾の状態であるとされていた。
その〝法相華〟の手入れについても「隠所の作法」に関する口伝があり、先に挙げた今東光の言葉を引用すると、
「稚児は先ずよくよく自らの法性花を清浄に洗い「柔らかな紙を能く揉んで拭い油もしくは唾を指頭に塗って法性花に入れ、よくよく誘うて後に頭指と中指と、次に頭指と中指と無名指で誘うて置かなければならない」
という。
つまり、常々清潔にしておくとともに、初心者では肛門の括約筋がキツく、なかなか師のイチモツを受け入れることができないため、よくほぐしておくことが求められたのである。
今東光によると、他にも法性花をほぐす訓練として「左右の腹わたを掴んで身をよる」という按腹法もあったらしい。
また、滑らかにイチモツが入るよう、丁子(クローブ)の潤滑油や、黄蜀葵根(とろろ葵の根)や通和散(とろろの粉末)、一分のりや海羅丸(海草のフノリを何度も和紙に染み込ませたもの)を口内で噛み、唾液に溶かして〝ぬめり薬〟にしたものを稚児の肛門と師僧のナニに塗ったようである。
こうして万事準備が整えばようやくお待ちかねの挿入であるが、閨(ねや 床の中)でもやはり作法があり、不躾なふるまいや会話は一切禁止であった。
そのため、意思疎通にあたったは指で合図をし、〝指取十の秘事〟というものが稚児灌頂の際に伝授された。
これは例えば、頭指(ひとさし指)・中指二本を取れれば「只今会わん(挿入する)と思う心」、大指(親指)・小指二本を取れば「口吸わん(キスする)と思う心」といった具合である。
他にも、背中を押せば後ろ向きの合図、ヘソの辺りを押せば前向きの合図というように、無言のまま指で会話をしながら師僧と稚児は交わったいたようだ。
しかし、稚児としていられる時間は短い……こうして丹精込めて育てた稚児との恋愛も4、5年という短さで終わる儚いものだったのである。
○「~丸」は稚児の証
牛若丸と鞍馬山の天狗
ちなみに、稚児灌頂を受け、観音菩薩の化身である正式な稚児となった者は名前の最後に「丸」の字を付けることが許された。
つまり、名前に「~丸」と付いている者は、稚児灌頂を受け、寺院で僧の性的な相手となった稚児と見てほぼ間違いがない。
とするならば、源義経は妙妙を「牛若丸」といい、「天狗の稚児になった」などという伝説もあるので、おそらくは預けられていた鞍馬山で灌頂を受け、こうした稚児となっていたのであろう。
他の武士にもまま見られるように、もしかしたら後の義経と家臣達との強い結びつきの背景には、このような男色を通じての肉体的な繋がりもあったのかもしれない。
〇夜這いの作法 →
〇妻問婚から婿取婚へ →
〇未成年とはやっぱりNG! →
〇平安女子の自由恋愛 →
〇平安朝ボーイズラブ →
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日本性愛史
平安時代(794年~1185年)
お寺はBLパラダイス
○稚児で肉欲を解消!
稚児と師僧
男女の色恋の道が隆盛を極めたこの時代、男色=男同士の同性愛――即ちBL(ボーイズラブ)も盛んに行われた。
特に盛んであったのが、寺院の中におけるそれである。
寺院での男色は奈良時代から行われていたようであるが、同性愛を禁じるキリスト教と違い、日本の仏教界においては伝統的に男色が肯定的に考えられていた。
仏教には〝女犯(にょぼん)〟と言って、女性と交わることを罪とする戒律(ルール)があるのだが、「じゃあ、男同士なら問題ないね」というなんとも短絡的な解釈で性欲の問題を解決したところがスゴイ。
もっとも、この女犯は「性欲に惑わされない」ための戒律であり、それではまったくもって仏教本来の教えに反しているのであるが……
(いや、そんな性交相手に関して男女の区別に〝こだわらない〟ところは、むしろ〝執着しない〟という御仏の教えに即しているのか……?)。
また、〝女人禁制〟の仏教寺院というまったく女性のいない環境(※尼寺は真逆だが)であったことも、異性との恋愛の代替方法として同性愛に走りやすい下地を作ったものと推測される。
ともかくも、そうしてBL上等であった寺院なのだが、それは「僧と僧」によるものよりも、「僧と稚児」によるものが主流であった。
〝稚児〟というのは13~18歳くらいの少年であり、髪は剃らず、色鮮やかな水干(※子供用の着物)
を着用し、顔には化粧を施して見目美しくした美少年達である。
つまり、同性愛であるとともに、小年愛の意味合いもあったのだ。
大人になるにつれ、どうしても体格や容貌が男性らしくなってしまうため、その稚児としての寿命は短く、19歳くらいになると静かに引退するのが常であったらしい(そのまま寺を去る者もあれば、僧になる者もいたようだ)。
そうした花のように儚い寿命も、なおいっそう僧達の恋情に火をつけたのであろう。
ちなみに一言に〝稚児〟といっても、それは上・中・下に分けられ、皇族や上流貴族の子弟が行儀見習いのために預けられた上稚児、才能を見込まれ、僧侶の世話係となった中稚児、雇われたり、売られて僧のものとなった下稚児がおり、この内、中・下の稚児が男色の対象となった。
無論、皇族や上流貴族出身者の上稚児は対象外である(中には例外もあったかもしれないが…)。
しかし、一般的に〝稚児〟と言った場合、それはほぼ〝僧侶の恋人役〟としての囲い者、〝恋童〟だった。
そもそも、僧の身の回りの世話などは小坊主がすればよいのであり、出家もしていない俗人である稚児は寺院での修行生活において必要とされないはずなのである。
○別格!叡山ブランド
稚児と契りを交わす僧
そんな寺院(※主に台密――天台密教の寺院)内における稚児文化の中でも、他とは一線を画していたのが比叡山延暦寺のそれだった。
他の寺院や貴族(※平安末期には貴族にも浸透)の間では稚児の眉目形(容姿)が重要視されたのに対し、比叡山の稚児は心遣いや学問などの内面が最重要とされていたところも大きく異なる。
そのため、師である僧に囲われた稚児はたいへんな手間と金をかけて育てられたが、読み書きはもちろん、
和歌の道、内外の経典に通じることが求められ、襖の開け閉め~歩き方までその立ち居振る舞いも美しくなければならず、私語・噂話・他人の批判・高笑いは禁止、勝負事・賭け事・喧嘩も禁止、見苦しいもの、品のないものを目にすることも憚られ、武者絵すらも相応しくないと遠ざけられた。
また、そうは言ってもやはり見た目も大切であり、朝は早くに起きると楊枝(※今の歯ブラシみたいなもの)で歯を磨き、世話係によって髪を結い上げ、化粧を施された。
さらにザクロの化粧水で顔や手足を洗ってきめ細かな肌を目指し、鼻の低い者は毎晩寝る際に板で鼻を挟んでいたそうである。
こうして、『マイフェアレディ』の如く完璧な存在として仕上げられる稚児であるが、〝永年〟という法要や季節の祭事の後に行われる宴会において、美しく着飾った稚児が必ず舞を踊ったことから、この宴は〝稚児さだめ〟とも呼ばれていた。
しかし、彼ら稚児は単なる性愛の対象ではない。
稚児は観音菩薩(如意輪観音)の化現として崇拝され、稚児と性行為で結ばれることは悟りへの近道であると考えられていたのである。
『弘児聖教秘伝』(※後述)という台密の秘伝書には、
「稚児を持つ者は早く仏果菩提を証す。善く稚児を持つは斯くの如く、悪く稚児を持つは魔道の種因なるべし。稚児は聖の為なり。稚児なくんば聖あるべからず、聖なうして稚児あるべからず」
とも述べられている。
そのため、稚児を聖なる観音菩薩の化身へと変える〝稚児灌頂〟という儀式を行うまでは、その稚児と交わることは禁じられていたようだ。
天台宗の大僧正で直木賞作家でもある今東光(1898~1977年 「昭和の怪人」と称される)は、その修業時代、比叡山麓の戒蔵院で前述の『児聖教秘伝(別名:児(ちご)灌頂)』なる奇書を発見し、それを題材に『稚児』(鳳書房 1947年)を執筆したが、この書は恵心僧都作と云われるもので、そこにはまさにこの〝稚児灌頂〟式次第が書かれたものであった。
それによると、〝稚児灌頂〟は通常の灌頂儀式(※密教の入門や免許皆伝に行う、頭に水を注ぐ儀式)とほぼ同様の内容のものであるが、如意輪観音の種字(※その仏尊を表わす梵字)を本尊として行われ、特殊なのは灌頂を受けた稚児に化粧道具、宝冠、稚児装束が与えられ、その後、師の席へ移動して観音菩薩として師から礼拝される形となることである。
そして、灌頂により稚児が観音菩薩へと化したら、いよいよ初めての〝床入り〟――情交となるのだが、師のナニを受け入れる稚児の菊座(肛門)は仏の座す八葉蓮華に喩えられ〝法性花〟と呼ばれており、師によって「開かれる」まで……つまり、開通式が行われるまで、この仏を表わす清浄無垢な法相花はまだ仏性を開顕してはおらず、蕾の状態であるとされていた。
その〝法相華〟の手入れについても「隠所の作法」に関する口伝があり、先に挙げた今東光の言葉を引用すると、
「稚児は先ずよくよく自らの法性花を清浄に洗い「柔らかな紙を能く揉んで拭い油もしくは唾を指頭に塗って法性花に入れ、よくよく誘うて後に頭指と中指と、次に頭指と中指と無名指で誘うて置かなければならない」
という。
つまり、常々清潔にしておくとともに、初心者では肛門の括約筋がキツく、なかなか師のイチモツを受け入れることができないため、よくほぐしておくことが求められたのである。
今東光によると、他にも法性花をほぐす訓練として「左右の腹わたを掴んで身をよる」という按腹法もあったらしい。
また、滑らかにイチモツが入るよう、丁子(クローブ)の潤滑油や、黄蜀葵根(とろろ葵の根)や通和散(とろろの粉末)、一分のりや海羅丸(海草のフノリを何度も和紙に染み込ませたもの)を口内で噛み、唾液に溶かして〝ぬめり薬〟にしたものを稚児の肛門と師僧のナニに塗ったようである。
こうして万事準備が整えばようやくお待ちかねの挿入であるが、閨(ねや 床の中)でもやはり作法があり、不躾なふるまいや会話は一切禁止であった。
そのため、意思疎通にあたったは指で合図をし、〝指取十の秘事〟というものが稚児灌頂の際に伝授された。
これは例えば、頭指(ひとさし指)・中指二本を取れれば「只今会わん(挿入する)と思う心」、大指(親指)・小指二本を取れば「口吸わん(キスする)と思う心」といった具合である。
他にも、背中を押せば後ろ向きの合図、ヘソの辺りを押せば前向きの合図というように、無言のまま指で会話をしながら師僧と稚児は交わったいたようだ。
しかし、稚児としていられる時間は短い……こうして丹精込めて育てた稚児との恋愛も4、5年という短さで終わる儚いものだったのである。
○「~丸」は稚児の証
牛若丸と鞍馬山の天狗
ちなみに、稚児灌頂を受け、観音菩薩の化身である正式な稚児となった者は名前の最後に「丸」の字を付けることが許された。
つまり、名前に「~丸」と付いている者は、稚児灌頂を受け、寺院で僧の性的な相手となった稚児と見てほぼ間違いがない。
とするならば、源義経は妙妙を「牛若丸」といい、「天狗の稚児になった」などという伝説もあるので、おそらくは預けられていた鞍馬山で灌頂を受け、こうした稚児となっていたのであろう。
他の武士にもまま見られるように、もしかしたら後の義経と家臣達との強い結びつきの背景には、このような男色を通じての肉体的な繋がりもあったのかもしれない。
〇夜這いの作法 →
〇妻問婚から婿取婚へ →
〇未成年とはやっぱりNG! →
〇平安女子の自由恋愛 →
〇平安朝ボーイズラブ →
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日本性愛史・平安時代・平安朝ボーイズラブ
category - 性愛史
2019/
04/
27日本性愛史・平安時代・平安朝ボーイズラブ
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日本性愛史
平安時代(794年~1185年)
平安朝ボーイズラブ
〇男好き♡悪左府頼長
奈良時代以降、僧侶の間で公然と行われていた男色――BL(ボーイズラブ)であるが、平安末期には公家の間にも広まっていたようである。
中でも有名なのが平安末期に左大臣を務めた藤原頼長(1120年~1156年)である。
藤原頼長像(公家列影図)
「日本一の大学生」と称されるほど学識高く、頭脳明晰(ただし和歌と漢詩は苦手…)で、律令や儒教に即して綱紀粛正や学術復興の政策を行ったが、鳥羽法皇の寵臣・藤原家成の邸宅を破壊したり、仁和寺境内に検非違使(※警察のようなもの)を送り込み僧侶と騒動を起こしたり、石清水八幡宮に逃げ込んだ罪人を捕まえようとしての流血事件となったり、上賀茂神社境内で興福寺の僧を捕縛したり……とそのあまりの過激さから〝悪左府(※型破りな左大臣の意)〟の異名で呼ばれた。
そんな苛烈な性格が災いしてか、院(※上皇・法皇)の近親である中・小貴族の反発を招き、関白である兄の忠通や近衛天皇、後白河天皇の養育係・信西とも対立して孤立。最後は父の忠実とともに保元の乱(1156年)で敗れ、没した。
そんな、なんともキャラの立った人物、悪左府頼長であるが、その日記『台記』には彼が男色を好んでいたことが詳しく書かれている。
しかも、その恋の成り行きや性生活を事細かに。
それも、当時の〝日記〟が今日の私的なそれとは大きく異なり、儀式の式次第や慣例などを記し、貴族社会で生きていくためのノウハウを子孫に伝えるための公的な参考書だったにも関わらずである。
例えば、その部分を抜粋してみるとこんな感じだ。
・康治元年七月五日
(原文)
今夜於内辺会交或三品(件三品兼衛府)、年来本意遂了。
(現代訳)
今夜、衛府三位と会って交わる。数年来の念願を遂げる。
・康治元年十一月二十三日
(原文)
謁或人(彼三位衛府)、遂本意、可喜ヽヽ。不知所為。更闌帰宅、与或四品羽林会交。
(現代訳)
衛府三位と思いを遂げる。とても嬉しい。深夜に帰宅してから近衛四位とも交わった。
・天養元年十一月二十三日
(原文)
深更向或所、彼人始犯余、不敵々々。
(現代訳)
深夜、彼が初めて私の上になる(彼は初めて私を犯した)。なんと不敵なことよ
・久安三年一月十六日
(原文)
彼朝臣漏精、足動感情、先々、常有如此之事、於此道、不恥于往古之人也。
(現代訳)
彼が精を漏らす(射精する)さまに感動する。いつも彼はすばらしく、先人と比較しても全く恥じるものがない。
・久安四年一月五日
(原文)
今夜入義賢於臥内、及無礼、有景味(不快後、初有此事)
(現代訳)
今夜、義賢と床に入る。彼は私に無礼をしたが中々良かった(初めは不愉快に思ったが、初めての事で意外と気に入った)。
・仁平二年八月二十四日
(原文)
亥刻許讃丸来、気味甚切、遂俱漏精、希有事也、此人恒常有比事、感嘆尤深。
(現代訳)
亥の刻(午後10~午前0時)に讃丸(隆季or成親?)が来た。とても心地よく、ついに一緒に精を漏らした(射精した)。とても稀なことだ。この人は常にこうであり、深く感動している。
……と、子孫に見られることをすっかり忘れていたのか、なんとも赤裸々な表現である。
相手も多人数に及び、随身(※護衛官)の秦公春・秦兼任、公家では藤原忠雅・藤原為通・藤原公能(正妻・幸子の実弟)・藤原隆季・藤原家明・藤原成親・源成雅(父・忠実の寵臣)、武士では源義賢(※源義朝の異母弟、木曽義仲の父)と身分も様々で、さらに稚児や舞人などにも手を出していたようである。
いや、身分だけでなく間柄も、家来だったり、妻の弟だったり、父親の寵臣(※肉体関係があり、気に入られている家臣)だったり……もう昼ドラも真っ青なドロドロの関係っぷりだ。
しかし、反面、その口説き方はいたってノーマルであり、女性に対してのそれ同様、「歌を送る」という手法をとっていたらしいのだが、如何せん頼長は歌が不得意であったためか、口説くのもあまり上手いとはいえなかったようだ。
例えば、美貌で知られた藤原隆季(たかすえ)などは年毎に何通もの手紙を送るもまるで返事をもらえず、最後は陰陽師・安倍泰親(晴明の五代目子孫)に祈祷符をもらうというマジカルな手を打った上に、すでに性的関係を持っていた隆季の従兄弟の藤原忠雅と三人で会う約束をし、途中、忠雅に席を外してもらうと半ば強引に隆季と〝本意遂了〟ている。
〇『台記』に見る当時のBL事情
また、当時のBLルールでは、暗黙の了解として〝セメ〟か〝ウケ〟かはその位の高さによって決まっていたのであるが、上記の源義賢との一戦のように逆転する場合も稀にあったようだ(しかも、Mの気も多少あったのか、頼長はけっこう喜んでいる)。
もう一つ注目すべきは「彼朝臣漏精、足動感情」、「遂俱漏精、希有事也(中略)感嘆尤深」と、行為中、〝精を漏らす=射精をする〟ことにとても喜びを得ていることだ。
性行為で男側が射精するのはごくありふれたことなので、これはおそらく肛門へ挿入する〝セメ〟側ではなく、犯される〝ウケ〟側の射精のことを言っているのだろう。
いわゆる俗に〝トコロテン〟と呼ばれるものであり、通常の射精と違い、前立腺の奥の精嚢を刺激することで、まさに〝ところてん〟の如く精液を押し出されて射精する生理現象である。
メカニズムはまったく異なるが、外見的には相手が女性であった場合の膣穴を突かれてオーガズムに達する=即ち〝イク〟のに相当して映るため、〝セメ〟側の男としては自分のテクニックで〝ウケ〟手が達する様がうれしく思えたのかもしれない。
〇BLも政略の道具
こうして見ると、なんとも〝男好き〟に見える頼長であるが、彼の男色は純粋な恋愛というより政略的な意味合いの強いものであったようだ。
それは、『台記』の記述から特定されている相手の四人までが院(※上皇・法皇)の近臣・藤原家成の親族であったことからも窺える。
源氏の棟梁である源為義の次男・義賢と通じたのも、源氏の武力を自分の側に取り込みたいという思惑が少なからずあってのことだったのかもしれない。
頼長ばかりでなく、平安末期の公家社会では男色が流行していたようであるが、それは院政(※上皇・法皇による政治)が行われ、上皇派、天皇派、さらに摂関家や平氏・源氏のような武家と、政治権力が複雑に絡み合う時代であったことと考え合わせるとなかなかに興味深い。
よく「当時、女性との結婚は政略結婚であったため、自由な恋愛を男色に求めた」的なことが言われていたりするが、この頼長の例を見る限りそうとも言い難いように思われる。
そもそも当時の結婚制度自体、後の時代のような堅苦しいものではなく、ほぼ〝フリーセックス〟状態であったため、政略的に結婚したとしても自由奔放に恋愛ができ、それが許されていたのだ。
他方、頼長は身分が低い随身の秦公春を非常に愛し、彼が病死した際には一月も家に引き籠り、公春を救わなかった神仏に対する愚痴を『台記』へ数十頁にわたり書き記している。
確かに別項(※平安時代TOPページ →)でも触れているとおり、貴族における恋愛は相手の女性の家が持つ地位や経済力を獲得するための手段でもあったが、同様に男色にもそうした目的が少なからずあったのであろう。
しかし、ただ単に政略的なものだったわけではなく、そこには純粋な恋愛感情によるものも当然あり、相手が男であれ女であれ、いわば現代における〝婚活女子〟と同じように、政略的でありつつ、かつ恋愛を楽しんでいたというのが実際の所だったのではないだろうか。
〇夜這いの作法 →
〇妻問婚から婿取婚へ →
〇未成年とはやっぱりNG! →
〇平安女子の自由恋愛 →
〇お寺はBLパラダイス →
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日本性愛史
平安時代(794年~1185年)
平安朝ボーイズラブ
〇男好き♡悪左府頼長
奈良時代以降、僧侶の間で公然と行われていた男色――BL(ボーイズラブ)であるが、平安末期には公家の間にも広まっていたようである。
中でも有名なのが平安末期に左大臣を務めた藤原頼長(1120年~1156年)である。
藤原頼長像(公家列影図)
「日本一の大学生」と称されるほど学識高く、頭脳明晰(ただし和歌と漢詩は苦手…)で、律令や儒教に即して綱紀粛正や学術復興の政策を行ったが、鳥羽法皇の寵臣・藤原家成の邸宅を破壊したり、仁和寺境内に検非違使(※警察のようなもの)を送り込み僧侶と騒動を起こしたり、石清水八幡宮に逃げ込んだ罪人を捕まえようとしての流血事件となったり、上賀茂神社境内で興福寺の僧を捕縛したり……とそのあまりの過激さから〝悪左府(※型破りな左大臣の意)〟の異名で呼ばれた。
そんな苛烈な性格が災いしてか、院(※上皇・法皇)の近親である中・小貴族の反発を招き、関白である兄の忠通や近衛天皇、後白河天皇の養育係・信西とも対立して孤立。最後は父の忠実とともに保元の乱(1156年)で敗れ、没した。
そんな、なんともキャラの立った人物、悪左府頼長であるが、その日記『台記』には彼が男色を好んでいたことが詳しく書かれている。
しかも、その恋の成り行きや性生活を事細かに。
それも、当時の〝日記〟が今日の私的なそれとは大きく異なり、儀式の式次第や慣例などを記し、貴族社会で生きていくためのノウハウを子孫に伝えるための公的な参考書だったにも関わらずである。
例えば、その部分を抜粋してみるとこんな感じだ。
・康治元年七月五日
(原文)
今夜於内辺会交或三品(件三品兼衛府)、年来本意遂了。
(現代訳)
今夜、衛府三位と会って交わる。数年来の念願を遂げる。
・康治元年十一月二十三日
(原文)
謁或人(彼三位衛府)、遂本意、可喜ヽヽ。不知所為。更闌帰宅、与或四品羽林会交。
(現代訳)
衛府三位と思いを遂げる。とても嬉しい。深夜に帰宅してから近衛四位とも交わった。
・天養元年十一月二十三日
(原文)
深更向或所、彼人始犯余、不敵々々。
(現代訳)
深夜、彼が初めて私の上になる(彼は初めて私を犯した)。なんと不敵なことよ
・久安三年一月十六日
(原文)
彼朝臣漏精、足動感情、先々、常有如此之事、於此道、不恥于往古之人也。
(現代訳)
彼が精を漏らす(射精する)さまに感動する。いつも彼はすばらしく、先人と比較しても全く恥じるものがない。
・久安四年一月五日
(原文)
今夜入義賢於臥内、及無礼、有景味(不快後、初有此事)
(現代訳)
今夜、義賢と床に入る。彼は私に無礼をしたが中々良かった(初めは不愉快に思ったが、初めての事で意外と気に入った)。
・仁平二年八月二十四日
(原文)
亥刻許讃丸来、気味甚切、遂俱漏精、希有事也、此人恒常有比事、感嘆尤深。
(現代訳)
亥の刻(午後10~午前0時)に讃丸(隆季or成親?)が来た。とても心地よく、ついに一緒に精を漏らした(射精した)。とても稀なことだ。この人は常にこうであり、深く感動している。
……と、子孫に見られることをすっかり忘れていたのか、なんとも赤裸々な表現である。
相手も多人数に及び、随身(※護衛官)の秦公春・秦兼任、公家では藤原忠雅・藤原為通・藤原公能(正妻・幸子の実弟)・藤原隆季・藤原家明・藤原成親・源成雅(父・忠実の寵臣)、武士では源義賢(※源義朝の異母弟、木曽義仲の父)と身分も様々で、さらに稚児や舞人などにも手を出していたようである。
いや、身分だけでなく間柄も、家来だったり、妻の弟だったり、父親の寵臣(※肉体関係があり、気に入られている家臣)だったり……もう昼ドラも真っ青なドロドロの関係っぷりだ。
しかし、反面、その口説き方はいたってノーマルであり、女性に対してのそれ同様、「歌を送る」という手法をとっていたらしいのだが、如何せん頼長は歌が不得意であったためか、口説くのもあまり上手いとはいえなかったようだ。
例えば、美貌で知られた藤原隆季(たかすえ)などは年毎に何通もの手紙を送るもまるで返事をもらえず、最後は陰陽師・安倍泰親(晴明の五代目子孫)に祈祷符をもらうというマジカルな手を打った上に、すでに性的関係を持っていた隆季の従兄弟の藤原忠雅と三人で会う約束をし、途中、忠雅に席を外してもらうと半ば強引に隆季と〝本意遂了〟ている。
〇『台記』に見る当時のBL事情
また、当時のBLルールでは、暗黙の了解として〝セメ〟か〝ウケ〟かはその位の高さによって決まっていたのであるが、上記の源義賢との一戦のように逆転する場合も稀にあったようだ(しかも、Mの気も多少あったのか、頼長はけっこう喜んでいる)。
もう一つ注目すべきは「彼朝臣漏精、足動感情」、「遂俱漏精、希有事也(中略)感嘆尤深」と、行為中、〝精を漏らす=射精をする〟ことにとても喜びを得ていることだ。
性行為で男側が射精するのはごくありふれたことなので、これはおそらく肛門へ挿入する〝セメ〟側ではなく、犯される〝ウケ〟側の射精のことを言っているのだろう。
いわゆる俗に〝トコロテン〟と呼ばれるものであり、通常の射精と違い、前立腺の奥の精嚢を刺激することで、まさに〝ところてん〟の如く精液を押し出されて射精する生理現象である。
メカニズムはまったく異なるが、外見的には相手が女性であった場合の膣穴を突かれてオーガズムに達する=即ち〝イク〟のに相当して映るため、〝セメ〟側の男としては自分のテクニックで〝ウケ〟手が達する様がうれしく思えたのかもしれない。
〇BLも政略の道具
こうして見ると、なんとも〝男好き〟に見える頼長であるが、彼の男色は純粋な恋愛というより政略的な意味合いの強いものであったようだ。
それは、『台記』の記述から特定されている相手の四人までが院(※上皇・法皇)の近臣・藤原家成の親族であったことからも窺える。
源氏の棟梁である源為義の次男・義賢と通じたのも、源氏の武力を自分の側に取り込みたいという思惑が少なからずあってのことだったのかもしれない。
頼長ばかりでなく、平安末期の公家社会では男色が流行していたようであるが、それは院政(※上皇・法皇による政治)が行われ、上皇派、天皇派、さらに摂関家や平氏・源氏のような武家と、政治権力が複雑に絡み合う時代であったことと考え合わせるとなかなかに興味深い。
よく「当時、女性との結婚は政略結婚であったため、自由な恋愛を男色に求めた」的なことが言われていたりするが、この頼長の例を見る限りそうとも言い難いように思われる。
そもそも当時の結婚制度自体、後の時代のような堅苦しいものではなく、ほぼ〝フリーセックス〟状態であったため、政略的に結婚したとしても自由奔放に恋愛ができ、それが許されていたのだ。
他方、頼長は身分が低い随身の秦公春を非常に愛し、彼が病死した際には一月も家に引き籠り、公春を救わなかった神仏に対する愚痴を『台記』へ数十頁にわたり書き記している。
確かに別項(※平安時代TOPページ →)でも触れているとおり、貴族における恋愛は相手の女性の家が持つ地位や経済力を獲得するための手段でもあったが、同様に男色にもそうした目的が少なからずあったのであろう。
しかし、ただ単に政略的なものだったわけではなく、そこには純粋な恋愛感情によるものも当然あり、相手が男であれ女であれ、いわば現代における〝婚活女子〟と同じように、政略的でありつつ、かつ恋愛を楽しんでいたというのが実際の所だったのではないだろうか。
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日本性愛史・平安時代・平安女子の自由恋愛
category - 性愛史
2019/
04/
14日本性愛史・平安時代・平安女子の自由恋愛
→展示室案内(INDEX)
日本性愛史
平安時代(794年~1185年)
平安女子の自由恋愛
〇清少納言は経験豊富?
清少納言
『源氏物語』の姫君達を見ていると、当時の女性は「ただ男の来訪を待つだけ」、「男に忘れられても、ただ淋しさに堪えて待つしかない」というようなイメージを抱きがちであるが、女房(※天皇の妻などの貴人に仕える女官)の日記を読むと、それとは大きく異なる活発的に恋を楽し女性像が現れてくる。
例えば、よく紫式部のライバルと称される『枕草子』の著者・清少納言(966年頃~1025年頃)は、最初、陸奥守(※現東北地方の行政官長)である橘則光と結婚し、一子則長をもうけるが武骨な夫と反りが合わず離婚。
だが、それで則光と絶交するわけでもなく、宮中公認の仲(恋人あるいはセフレ?)であり続けながら、他方、摂津守(※現大阪府の行政官長)・藤原棟世と再婚して娘・小馬命婦を生んでいる。
正暦4年(993年)の冬頃からは一条天皇の中宮(※正妻)定子に女房として仕えるが、その宮中生活の中でも藤原実方、藤原斉信、藤原行成、源宣方、源経房といった公卿、公達との親交を持ち、特に藤原実方とは恋愛関係にあったことが推察されている……
というように、「一人の男をずっと愛し続ける一途な女」というのではなく、貴公子達同様、多くの男性と関係を持っているのである。
また、『枕草子』の第六十段「暁に帰らむ人は」には、〝ダメな男〟について書かれれているのであるが、
(原文)
「あかつきに帰らむ人は、装束などいみじううるはしう、烏帽子の緒、元結、かためずともありなむとこそ覚ゆれ。いみじくしどけなく、かたくなしく、直衣、狩衣などゆがめたりとも、誰か見知りて笑ひそしりもせむ。
人はなほあかつきのありさまこそ、をかしうもあるべけれ。わりなくしぶしぶに起きがたげなるを、しひてそそのかし、明けすぎぬ。あな、見ぐるしなど言はれて、うちなげくけしきも、げにあかず物憂くもあらむかしと見ゆ。指貫なども、ゐながら着もやらず、まづさしよりて、夜言ひつることの名残、女の耳に言ひ入れて、何わざすともなきやうなれど、帯など結ふやうなり。格子おし上げ、妻戸ある所は、やがてもろともに率(ゐ)ていきて、昼のほどのおぼつかならむことなども、言ひいでにすべりいでなむは、見おくられて名残もをかしかりなむ。
思ひ出所ありて、いときはやかに起きて、ひろめきたちて、指貫の腰ごそごそとかはは結ひなほし、上のきぬも、狩衣、袖かいまくりて、よろとさし入れ、帯いとしたたかに結ひはてて、ついゐて、烏帽子の緒きとつよげに結ひ入れて、かいすうる音して、扇・畳紙など、よべ枕上におきしかど、おのづから引かれ散りにけるをもとむるに、くらければ、いかでかは見えむ。いづらいづらとたたきわたし、見出でて、扇ふたふたとつかひ、懐紙さし入れて、まかりなむとばかり言ふらめ」
(口語訳)
「明け方、女の所から帰ろうとする男は服装などきちんとし、烏帽子の緒や髪の元結を固く結ばなくてもよさそうに思える。だらしなく、ぶざまに直衣や狩衣などが歪んでいても、誰が目撃して笑ったり悪口を言ったりするだろうか?
男はやはり明け方の別れ際こそ風流であるべきだ。しぶって起きないでいるのを女が無理に急かし、〝すっかり明るくなりましたよ。まあ、みっともない〟などと言われ、溜息を吐く様子もほんとに名残惜しく、別れが辛いのだろうと見える。指貫なども座ったまま着ようとせず、まずは女に近寄って夜の話の続きを耳元で囁き、特に何をするでもなく帯などを結んでいる。格子を上げたり、妻戸の所へ女も一緒に連れて行き、昼間は(夜に会うまでが)待ち遠しいなどと言いながら、そっと出て行くのは女も自然に見送ることになって、名残も趣きがあるものだ。
かたや何か思い出したのか、いやにさっぱりと起き出し、ばたばたと動き回り、指貫の腰紐をがさがさと結び直し、袍や狩衣も袖をまくり上げ、さっさと腕を通し、帯を強く結び、ひざまずいて烏帽子の緒をきゅっと強めに結んで、かき寄せる音がして扇・畳紙など昨夜枕元に置いて散らかったものを探すのだが、暗いので見えはしない。どこだどこだと探し回ってやっと見つけ、扇をぱたぱたと使い、懐紙を懐中に入れながら〝帰るよ〟とだけ言うような男もいる。
と、愛し合った日の翌朝、さっさと身形を整えて帰る男は味気なく、別れるのが辛そうにグズグズしてる男が良いと主張している。
もっとも、批評家の清少納言のことなので(勝手なイメージですが…)、経験豊富な色恋のベテラン女子ぶって言ってるだけということも考えられるが、この妙にリアルな描写からは彼女が実際に男と遊び慣れしている様子が窺える。
〇恋多き女性、和泉式部
和泉式部
もう一人、自由恋愛を謳歌した女性を例に挙げるとするならば、やはりこの人、紫式部と同じ中宮・彰子の女房で〝恋多き女性〟として有名な和泉式部(978年~没年不詳)であろう。
その激しい恋愛遍歴から藤原道長に〝浮かれ女〟と評され、同僚の紫式部は「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」(『紫式部日記』)と批判されているほどだ。
最初は和泉守(※現大阪府南西部の行政官長)・橘道貞の妻となり、娘・小式部内侍をもうけるが、道貞と別居状態になると、冷泉天皇の第三皇子・為尊親王との熱愛が世に喧伝され、「身分違いの恋である」として親から勘当を受けている。
為尊親王の死後、今度はその同母弟・敦道親王の求愛を受け、召人(※愛人としての女房=女官)として一子・永覚を生むが、親王が彼女を屋敷に迎えるにあたり、正妃(藤原済時の娘)が家出する原因を作っている。
そんな敦道親王も早世してしまうと、一条天皇の中宮・藤原彰子に女房として出仕、彰子の父である藤原道長の家司(※執事のようなもの)・藤原保昌と再婚する。
これだけでは〝浮かれ女〟と言われるほどではないように思われるが、それは彼女の恋のスキャンダル性のためだったのか、それともこれ以外にもまだまだいろいろあったのだろうか……。
ともかくも、この代表的な二人の女房(女官)の豊富な恋愛経験を見れば、当時の女性が「ただ男を待つだけ」の存在でなかったことはおわかりだろう。
もちろん中には、例えばやはり中宮・彰子の女房の一人である赤染衛門(956年頃~1041年以後)のように、一人の夫一筋の一途な女性や、『蜻蛉日記』の作者である藤原道綱の母(936年?~995年)のように、男に忘れられ、再びの来訪をただじっと待つ淋しい身の上の者ももちろんいたであろうが、複数の姫君と関係を持つ貴公子同様、女達も幾多と男性と浮名を流していたのである。
〇離婚の権利は男女平等
寝所
また〝離婚〟に関しても「男からの一方的なもので、女性はそれに従うしかない」というイメージを抱きがちかもしれないが、意外や実際には男女ともにその権利を行使できた。
〝床去り〟・〝夜離れ〟と呼ばれる「夫が妻のもとに通わなくなる」状態になれば、それは〝離婚〟と考えられたが、逆に「通ってきた夫を妻が返してしまう」という状態でも、やはり〝離婚〟は成立したのである。
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平安時代(794年~1185年)
平安女子の自由恋愛
〇清少納言は経験豊富?
清少納言
『源氏物語』の姫君達を見ていると、当時の女性は「ただ男の来訪を待つだけ」、「男に忘れられても、ただ淋しさに堪えて待つしかない」というようなイメージを抱きがちであるが、女房(※天皇の妻などの貴人に仕える女官)の日記を読むと、それとは大きく異なる活発的に恋を楽し女性像が現れてくる。
例えば、よく紫式部のライバルと称される『枕草子』の著者・清少納言(966年頃~1025年頃)は、最初、陸奥守(※現東北地方の行政官長)である橘則光と結婚し、一子則長をもうけるが武骨な夫と反りが合わず離婚。
だが、それで則光と絶交するわけでもなく、宮中公認の仲(恋人あるいはセフレ?)であり続けながら、他方、摂津守(※現大阪府の行政官長)・藤原棟世と再婚して娘・小馬命婦を生んでいる。
正暦4年(993年)の冬頃からは一条天皇の中宮(※正妻)定子に女房として仕えるが、その宮中生活の中でも藤原実方、藤原斉信、藤原行成、源宣方、源経房といった公卿、公達との親交を持ち、特に藤原実方とは恋愛関係にあったことが推察されている……
というように、「一人の男をずっと愛し続ける一途な女」というのではなく、貴公子達同様、多くの男性と関係を持っているのである。
また、『枕草子』の第六十段「暁に帰らむ人は」には、〝ダメな男〟について書かれれているのであるが、
(原文)
「あかつきに帰らむ人は、装束などいみじううるはしう、烏帽子の緒、元結、かためずともありなむとこそ覚ゆれ。いみじくしどけなく、かたくなしく、直衣、狩衣などゆがめたりとも、誰か見知りて笑ひそしりもせむ。
人はなほあかつきのありさまこそ、をかしうもあるべけれ。わりなくしぶしぶに起きがたげなるを、しひてそそのかし、明けすぎぬ。あな、見ぐるしなど言はれて、うちなげくけしきも、げにあかず物憂くもあらむかしと見ゆ。指貫なども、ゐながら着もやらず、まづさしよりて、夜言ひつることの名残、女の耳に言ひ入れて、何わざすともなきやうなれど、帯など結ふやうなり。格子おし上げ、妻戸ある所は、やがてもろともに率(ゐ)ていきて、昼のほどのおぼつかならむことなども、言ひいでにすべりいでなむは、見おくられて名残もをかしかりなむ。
思ひ出所ありて、いときはやかに起きて、ひろめきたちて、指貫の腰ごそごそとかはは結ひなほし、上のきぬも、狩衣、袖かいまくりて、よろとさし入れ、帯いとしたたかに結ひはてて、ついゐて、烏帽子の緒きとつよげに結ひ入れて、かいすうる音して、扇・畳紙など、よべ枕上におきしかど、おのづから引かれ散りにけるをもとむるに、くらければ、いかでかは見えむ。いづらいづらとたたきわたし、見出でて、扇ふたふたとつかひ、懐紙さし入れて、まかりなむとばかり言ふらめ」
(口語訳)
「明け方、女の所から帰ろうとする男は服装などきちんとし、烏帽子の緒や髪の元結を固く結ばなくてもよさそうに思える。だらしなく、ぶざまに直衣や狩衣などが歪んでいても、誰が目撃して笑ったり悪口を言ったりするだろうか?
男はやはり明け方の別れ際こそ風流であるべきだ。しぶって起きないでいるのを女が無理に急かし、〝すっかり明るくなりましたよ。まあ、みっともない〟などと言われ、溜息を吐く様子もほんとに名残惜しく、別れが辛いのだろうと見える。指貫なども座ったまま着ようとせず、まずは女に近寄って夜の話の続きを耳元で囁き、特に何をするでもなく帯などを結んでいる。格子を上げたり、妻戸の所へ女も一緒に連れて行き、昼間は(夜に会うまでが)待ち遠しいなどと言いながら、そっと出て行くのは女も自然に見送ることになって、名残も趣きがあるものだ。
かたや何か思い出したのか、いやにさっぱりと起き出し、ばたばたと動き回り、指貫の腰紐をがさがさと結び直し、袍や狩衣も袖をまくり上げ、さっさと腕を通し、帯を強く結び、ひざまずいて烏帽子の緒をきゅっと強めに結んで、かき寄せる音がして扇・畳紙など昨夜枕元に置いて散らかったものを探すのだが、暗いので見えはしない。どこだどこだと探し回ってやっと見つけ、扇をぱたぱたと使い、懐紙を懐中に入れながら〝帰るよ〟とだけ言うような男もいる。
と、愛し合った日の翌朝、さっさと身形を整えて帰る男は味気なく、別れるのが辛そうにグズグズしてる男が良いと主張している。
もっとも、批評家の清少納言のことなので(勝手なイメージですが…)、経験豊富な色恋のベテラン女子ぶって言ってるだけということも考えられるが、この妙にリアルな描写からは彼女が実際に男と遊び慣れしている様子が窺える。
〇恋多き女性、和泉式部
和泉式部
もう一人、自由恋愛を謳歌した女性を例に挙げるとするならば、やはりこの人、紫式部と同じ中宮・彰子の女房で〝恋多き女性〟として有名な和泉式部(978年~没年不詳)であろう。
その激しい恋愛遍歴から藤原道長に〝浮かれ女〟と評され、同僚の紫式部は「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」(『紫式部日記』)と批判されているほどだ。
最初は和泉守(※現大阪府南西部の行政官長)・橘道貞の妻となり、娘・小式部内侍をもうけるが、道貞と別居状態になると、冷泉天皇の第三皇子・為尊親王との熱愛が世に喧伝され、「身分違いの恋である」として親から勘当を受けている。
為尊親王の死後、今度はその同母弟・敦道親王の求愛を受け、召人(※愛人としての女房=女官)として一子・永覚を生むが、親王が彼女を屋敷に迎えるにあたり、正妃(藤原済時の娘)が家出する原因を作っている。
そんな敦道親王も早世してしまうと、一条天皇の中宮・藤原彰子に女房として出仕、彰子の父である藤原道長の家司(※執事のようなもの)・藤原保昌と再婚する。
これだけでは〝浮かれ女〟と言われるほどではないように思われるが、それは彼女の恋のスキャンダル性のためだったのか、それともこれ以外にもまだまだいろいろあったのだろうか……。
ともかくも、この代表的な二人の女房(女官)の豊富な恋愛経験を見れば、当時の女性が「ただ男を待つだけ」の存在でなかったことはおわかりだろう。
もちろん中には、例えばやはり中宮・彰子の女房の一人である赤染衛門(956年頃~1041年以後)のように、一人の夫一筋の一途な女性や、『蜻蛉日記』の作者である藤原道綱の母(936年?~995年)のように、男に忘れられ、再びの来訪をただじっと待つ淋しい身の上の者ももちろんいたであろうが、複数の姫君と関係を持つ貴公子同様、女達も幾多と男性と浮名を流していたのである。
〇離婚の権利は男女平等
寝所
また〝離婚〟に関しても「男からの一方的なもので、女性はそれに従うしかない」というイメージを抱きがちかもしれないが、意外や実際には男女ともにその権利を行使できた。
〝床去り〟・〝夜離れ〟と呼ばれる「夫が妻のもとに通わなくなる」状態になれば、それは〝離婚〟と考えられたが、逆に「通ってきた夫を妻が返してしまう」という状態でも、やはり〝離婚〟は成立したのである。
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2019/
04/
13日本性愛史・平安時代・未成年とはやっぱりNG!
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日本性愛史
平安時代(794年~1185年)
未成年とはやっぱりNG!
〇初潮を迎えたら立派なおとな
どこぞに良い姫君がいると聞けば、すでに既婚者であってもすぐさま駆けつけ、夜毎、貴公子達は相手をとっかえひっかえやりまくり、後述するように女性ばかりか男性との性交渉もあたりまえの、もうなんでもありのように思える平安時代の性事情であるが、それでも、暗黙の了解として禁止されてることはあった……。
それは、〝こども(未成年者)〟との性行為である。
といっても、現在のように18歳以上ではない。当時はもっと年齢は低く、初潮を迎え、肉体的に一人前の〝おとな〟に成長してからということである。
通過儀礼的には、女子ならば成人式である「裳着(もぎ)」の行われる、初潮を迎える10代前半だ。
〇紫の上の初体験
そうしたタブー感は『源氏物語』の第九帖「葵」後半における、紫の君(※結婚後は「紫の上」。正式ではいが二番目の正妻格)と初手枕(初夜)に及ぶ話からも覗い知ることができる。
この紫の君、幼くして母を亡くし、「若紫」という名で呼ばれた幼少期に祖母・北山の尼君の家で育てられていたところ、偶然、垣間見た光源氏に見初められ、祖母の死後、父親の兵部卿宮に引き取ら得るはずだったが源氏は彼女を自宅に連れ去り、親族には何も伝えぬまま自分の理想とする好みの女性へと育てる……
という、最早、『マイフェアレディ』どころか拉致監禁した上に身勝手な育成ゲームを楽しむという卑劣な行為を源氏は行っている。
(※もっとも、彼は何不自由ない経済的援助と最高レベルの教育を施しており、当時の後見人のいない女性の厳しい境遇なども考慮すると、現在のそうした犯罪者とは少々事情が異なるのではあるが…)
祖母の家の若紫(紫の君)を垣間見る光源氏
しかし、そんな拉致監禁をおくびもなく行ったこのプレボーイであっても、紫の君が女性として成長するまではけして性愛の対象として手は出さなかった。
それは、他の女性との恋愛やアクシデントがあってしばらく会わなかった後、久方ぶりに二条邸ですっかり大きくなった紫の君と会った時のこと。
(原文)
「姫君の、何ごともあらまほしうととのひ果てて、いとめでたうのみ見えたまふを、 似げなからぬほどに、はた、見なしたまへれば、 けしきばみたることなど、折々聞こえ試みたまへど、見も知りたまはぬけしきなり」
(現代訳)
姫君(紫の君)がすっかり一人前の貴女に成長なされているのを見て、もう結婚(交渉)をしてもよい時期になったように思え、おりおりそれまでは交わしたことのないような戯談(性行為を匂わすような会話)をしてみるのだったが、紫の君にはその意見が通じなかった。
とある。
源氏はいつでも自分の意思次第で完全に自由になる状況に紫の君を置きながらも、彼女が成長するまでは手を出してはいけないものと考えていたのだ。
まあ、性教育は施していなかったのか、体だけはおとなになっても精神はまだまだこどものままだったようであるが……。
しかし、そんな精神年齢は低い姫君でも、体が〝おとな〟に育っているとなれば、もう源氏の欲情は止められない。
(原文)
「たださるかたのらうたさのみはありつれ、しのびがたくなりて、 心苦しけれど、いかがありけむ、 人のけぢめ見たてまつりわくべき御仲にもあらぬに、男君はとく起きたまひて、女君はさらに起きたまはぬ朝あり」
(現代訳)
「ただ肉親のように愛撫すれば満足できた過去とは違い、愛すれば愛するほどその悩ましさは増し、ついに堪えられなくなった源氏は心苦しいこと(強引な性行為)を行った。そうしたことのあった前も後も女房(※女官)達の目に違って見えることはなかった(気づかなかった)が、寝屋から源氏だけが早く起きて来て、姫君が床を離れない朝があった。
まだ〝男と女のこと〟を何も知らない紫の君を、源氏は〝おとな〟の女性になったということで、欲情を抑えきれず犯してしまったのである。
さすがにこれには紫の君も怒ったらしく、その後、拗ねてしばらく口も利いてくれなくなったらしいが(源氏に関係を迫られた姫君の中では珍しく本気で怒り、嫌っている)……このエピソードからは、箱入り娘として育てられ、まるで性の知識のない姫君が初体験を迎える時の状況が知れて興味深い。
ともかくも、肉体的におとなの女性へ成長していることをもって、性行為の解禁時期と考えられていたようだ。
〇夜這いの作法 →
〇妻問婚から婿取婚へ →
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〇お寺はBLパラダイス →
〇平安朝ボーイズラブ →
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日本性愛史
平安時代(794年~1185年)
未成年とはやっぱりNG!
〇初潮を迎えたら立派なおとな
どこぞに良い姫君がいると聞けば、すでに既婚者であってもすぐさま駆けつけ、夜毎、貴公子達は相手をとっかえひっかえやりまくり、後述するように女性ばかりか男性との性交渉もあたりまえの、もうなんでもありのように思える平安時代の性事情であるが、それでも、暗黙の了解として禁止されてることはあった……。
それは、〝こども(未成年者)〟との性行為である。
といっても、現在のように18歳以上ではない。当時はもっと年齢は低く、初潮を迎え、肉体的に一人前の〝おとな〟に成長してからということである。
通過儀礼的には、女子ならば成人式である「裳着(もぎ)」の行われる、初潮を迎える10代前半だ。
〇紫の上の初体験
そうしたタブー感は『源氏物語』の第九帖「葵」後半における、紫の君(※結婚後は「紫の上」。正式ではいが二番目の正妻格)と初手枕(初夜)に及ぶ話からも覗い知ることができる。
この紫の君、幼くして母を亡くし、「若紫」という名で呼ばれた幼少期に祖母・北山の尼君の家で育てられていたところ、偶然、垣間見た光源氏に見初められ、祖母の死後、父親の兵部卿宮に引き取ら得るはずだったが源氏は彼女を自宅に連れ去り、親族には何も伝えぬまま自分の理想とする好みの女性へと育てる……
という、最早、『マイフェアレディ』どころか拉致監禁した上に身勝手な育成ゲームを楽しむという卑劣な行為を源氏は行っている。
(※もっとも、彼は何不自由ない経済的援助と最高レベルの教育を施しており、当時の後見人のいない女性の厳しい境遇なども考慮すると、現在のそうした犯罪者とは少々事情が異なるのではあるが…)
祖母の家の若紫(紫の君)を垣間見る光源氏
しかし、そんな拉致監禁をおくびもなく行ったこのプレボーイであっても、紫の君が女性として成長するまではけして性愛の対象として手は出さなかった。
それは、他の女性との恋愛やアクシデントがあってしばらく会わなかった後、久方ぶりに二条邸ですっかり大きくなった紫の君と会った時のこと。
(原文)
「姫君の、何ごともあらまほしうととのひ果てて、いとめでたうのみ見えたまふを、 似げなからぬほどに、はた、見なしたまへれば、 けしきばみたることなど、折々聞こえ試みたまへど、見も知りたまはぬけしきなり」
(現代訳)
姫君(紫の君)がすっかり一人前の貴女に成長なされているのを見て、もう結婚(交渉)をしてもよい時期になったように思え、おりおりそれまでは交わしたことのないような戯談(性行為を匂わすような会話)をしてみるのだったが、紫の君にはその意見が通じなかった。
とある。
源氏はいつでも自分の意思次第で完全に自由になる状況に紫の君を置きながらも、彼女が成長するまでは手を出してはいけないものと考えていたのだ。
まあ、性教育は施していなかったのか、体だけはおとなになっても精神はまだまだこどものままだったようであるが……。
しかし、そんな精神年齢は低い姫君でも、体が〝おとな〟に育っているとなれば、もう源氏の欲情は止められない。
(原文)
「たださるかたのらうたさのみはありつれ、しのびがたくなりて、 心苦しけれど、いかがありけむ、 人のけぢめ見たてまつりわくべき御仲にもあらぬに、男君はとく起きたまひて、女君はさらに起きたまはぬ朝あり」
(現代訳)
「ただ肉親のように愛撫すれば満足できた過去とは違い、愛すれば愛するほどその悩ましさは増し、ついに堪えられなくなった源氏は心苦しいこと(強引な性行為)を行った。そうしたことのあった前も後も女房(※女官)達の目に違って見えることはなかった(気づかなかった)が、寝屋から源氏だけが早く起きて来て、姫君が床を離れない朝があった。
まだ〝男と女のこと〟を何も知らない紫の君を、源氏は〝おとな〟の女性になったということで、欲情を抑えきれず犯してしまったのである。
さすがにこれには紫の君も怒ったらしく、その後、拗ねてしばらく口も利いてくれなくなったらしいが(源氏に関係を迫られた姫君の中では珍しく本気で怒り、嫌っている)……このエピソードからは、箱入り娘として育てられ、まるで性の知識のない姫君が初体験を迎える時の状況が知れて興味深い。
ともかくも、肉体的におとなの女性へ成長していることをもって、性行為の解禁時期と考えられていたようだ。
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日本性愛史・平安時代・夜這いの作法
category - 性愛史
2019/
04/
10日本性愛史・平安時代・夜這いの作法
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日本性愛史
平安時代(794年~1185年)
夜這いの作法
〇夜這いにもルールあり
前代に続き、平安時代もいわゆる〝妻問婚〟――〝夜這い〟による男女交際がスタンダードであったわけなのだが、史料がないので庶民はどうであったかわからないものの、上流階級においては「いきなり寝所に押し入って性交する」というような、現代人が〝夜這い〟という言葉からイメージする乱暴なものとはかなり異なっていた。
そこにはマナーというか暗黙のルールというか、自然と決められた手順があり、その手順に則って行われる雅で紳士的な、いうなれば洗練された〝夜這い〟の文化が花開いていたのである。
その手順というのは以下の通りである。
1 「どこそこの家に美しい娘がいる」という噂から男は狙う相手を定める。
2 男がその家へ行き、娘に和歌や手紙を送る(今でいうラブレター)。
3 娘の親が男の出自・身分などを参考に相応しい相手かどうかを判断する。
4 親が認めれば、娘はその男に和歌や手紙を返し、そのやりとりをしばらく続ける。
5 和歌のやりとりで気に入れば、男は何回か通って御簾越しに娘と会い、言葉を交わす。
6 会話してさらに気に入れば、娘の寝所に忍び込んで性行為に及ぶ。
7 三夜続けて寝所で交われば結婚したこととなる。
とまあ、言う具合に、意外や「いきなり忍び込んで即H」ではなく、そこに至るまでには幾つかの段階を踏んでおり、実際に〝夜這い〟する時にはすでにお互い合意の上になっていたのである。
今風にいえば、SNSやメールでやりとりをし、意気投合すれば実際にあって話をしてみて、さらに気が合えばHな行為に及ぶ…といったところだろうか?
そんな風に〝夜這い〟のイメージとは裏腹に、ちゃんと交際期間を持った後での性交渉だったわけだ。
というよりも、最後の一線が〝夜這い〟という方法をとっていただけとも言える。
和歌のやりとりで相手を見定めるところもそうであるが、そこには古来から続く〝歌垣〟の伝統が残っていたのであろう。
また、おもしろいのは交際するのに「娘の親の同意が必要」だったことだ。
それは当時がまだ「家や財産は娘に受け継がれる」という〝母系社会〟の経済構造を持っていたこととともに、この時代には厳格な階級社会の出来上がっていたことの影響であろう。
庶民ならまだしも、身分ですべてが決まる貴族階級においては、「娘の結婚相手となる男の社会的地位」は家の隆盛に直結する。
大事な〝跡取り娘〟をどこの馬の骨ともわからない相手と添わせるわけにはいかないのだ。
もちろん、これは基本のパターンであり、中には親の許可や本人の合意なく忍び込む場合も少なくはなかったであろう。
そういう例は当時の文学にもよく描かれており、『源氏物語』でも二番目の正妻格(※正式な二番目の正妻は女三宮)の「紫の上(若紫)」や「空蝉(帚木)」、その継娘の「軒端荻(のきはのおぎ)」をはじめ、強引に関係を持つに至るパターンが多い。
空蝉と軒端荻が碁を打つ様子を覗く光源氏(宇治市 源氏物語ミュージアム)
〇光源氏はレ●プ魔か?
そんな光源氏の強引さから近年、「源氏物語はレ●プ文学だ!(※ブログの禁足事項により伏字にしています)」という評価がくだされていたりする。
しかし、強引に関係を持たれた姫君達のその後の態度を見ると、それには少々疑問を感じるところがある。
合意なしではあったものの姫君達は皆、光源氏に好意的な感情を抱いているし、「軒端荻」などはむしろ自分から迫るようになっている。
一度関係を持って以降、避けるようになる「藤壺の宮(天皇の正妻)」や「空蝉(伊予国主の次官の妻)」も、それは源氏が嫌いだからというよりは、自身の人妻という身分や社会的地位の問題からである。
前述した〝夜這いの作法〟の件を見るにも、この〝強引〟というのは「ルールを無視しての」という意味合いであり、姫君達は「性行為をする」こと自体を嫌がったのではなく、「ルールを無視して行為に及ぶ」ことを拒否していたのではないだろうか?
姫君達の態度からは、「性行為に及ぶ」ハードルよりも、むしろ「社会的ルールを破る」ハードルの方が高かったように感じられるのだ(※紫の上の場合は完全にレ●プと呼べるものであり、その後、しばらく嫌われていたが… → 未成年とはやっぱりNG!参照)。
もちろん、これは文学という創作のものであるが、同様の共通認識が当時の人々にもなかったならば、ここまでこの作品が人気を博すことはなかったであろう。
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平安時代(794年~1185年)
夜這いの作法
〇夜這いにもルールあり
前代に続き、平安時代もいわゆる〝妻問婚〟――〝夜這い〟による男女交際がスタンダードであったわけなのだが、史料がないので庶民はどうであったかわからないものの、上流階級においては「いきなり寝所に押し入って性交する」というような、現代人が〝夜這い〟という言葉からイメージする乱暴なものとはかなり異なっていた。
そこにはマナーというか暗黙のルールというか、自然と決められた手順があり、その手順に則って行われる雅で紳士的な、いうなれば洗練された〝夜這い〟の文化が花開いていたのである。
その手順というのは以下の通りである。
1 「どこそこの家に美しい娘がいる」という噂から男は狙う相手を定める。
2 男がその家へ行き、娘に和歌や手紙を送る(今でいうラブレター)。
3 娘の親が男の出自・身分などを参考に相応しい相手かどうかを判断する。
4 親が認めれば、娘はその男に和歌や手紙を返し、そのやりとりをしばらく続ける。
5 和歌のやりとりで気に入れば、男は何回か通って御簾越しに娘と会い、言葉を交わす。
6 会話してさらに気に入れば、娘の寝所に忍び込んで性行為に及ぶ。
7 三夜続けて寝所で交われば結婚したこととなる。
とまあ、言う具合に、意外や「いきなり忍び込んで即H」ではなく、そこに至るまでには幾つかの段階を踏んでおり、実際に〝夜這い〟する時にはすでにお互い合意の上になっていたのである。
今風にいえば、SNSやメールでやりとりをし、意気投合すれば実際にあって話をしてみて、さらに気が合えばHな行為に及ぶ…といったところだろうか?
そんな風に〝夜這い〟のイメージとは裏腹に、ちゃんと交際期間を持った後での性交渉だったわけだ。
というよりも、最後の一線が〝夜這い〟という方法をとっていただけとも言える。
和歌のやりとりで相手を見定めるところもそうであるが、そこには古来から続く〝歌垣〟の伝統が残っていたのであろう。
また、おもしろいのは交際するのに「娘の親の同意が必要」だったことだ。
それは当時がまだ「家や財産は娘に受け継がれる」という〝母系社会〟の経済構造を持っていたこととともに、この時代には厳格な階級社会の出来上がっていたことの影響であろう。
庶民ならまだしも、身分ですべてが決まる貴族階級においては、「娘の結婚相手となる男の社会的地位」は家の隆盛に直結する。
大事な〝跡取り娘〟をどこの馬の骨ともわからない相手と添わせるわけにはいかないのだ。
もちろん、これは基本のパターンであり、中には親の許可や本人の合意なく忍び込む場合も少なくはなかったであろう。
そういう例は当時の文学にもよく描かれており、『源氏物語』でも二番目の正妻格(※正式な二番目の正妻は女三宮)の「紫の上(若紫)」や「空蝉(帚木)」、その継娘の「軒端荻(のきはのおぎ)」をはじめ、強引に関係を持つに至るパターンが多い。
空蝉と軒端荻が碁を打つ様子を覗く光源氏(宇治市 源氏物語ミュージアム)
〇光源氏はレ●プ魔か?
そんな光源氏の強引さから近年、「源氏物語はレ●プ文学だ!(※ブログの禁足事項により伏字にしています)」という評価がくだされていたりする。
しかし、強引に関係を持たれた姫君達のその後の態度を見ると、それには少々疑問を感じるところがある。
合意なしではあったものの姫君達は皆、光源氏に好意的な感情を抱いているし、「軒端荻」などはむしろ自分から迫るようになっている。
一度関係を持って以降、避けるようになる「藤壺の宮(天皇の正妻)」や「空蝉(伊予国主の次官の妻)」も、それは源氏が嫌いだからというよりは、自身の人妻という身分や社会的地位の問題からである。
前述した〝夜這いの作法〟の件を見るにも、この〝強引〟というのは「ルールを無視しての」という意味合いであり、姫君達は「性行為をする」こと自体を嫌がったのではなく、「ルールを無視して行為に及ぶ」ことを拒否していたのではないだろうか?
姫君達の態度からは、「性行為に及ぶ」ハードルよりも、むしろ「社会的ルールを破る」ハードルの方が高かったように感じられるのだ(※紫の上の場合は完全にレ●プと呼べるものであり、その後、しばらく嫌われていたが… → 未成年とはやっぱりNG!参照)。
もちろん、これは文学という創作のものであるが、同様の共通認識が当時の人々にもなかったならば、ここまでこの作品が人気を博すことはなかったであろう。
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